2011年4月2日先月の出来事
2011年3月11日。
忘れようにも忘れられない出来事、そして現在進行形の出来事。
あの時、私は地元の駅前のカフェにいました。
友人との待ち合わせで時間つぶし。
その友人は、都合により遅れて到着しました。
あと10分早く友人が到着していたら、私は恐らく東京湾上の道路にいたことと思います。
14時46分。
経験したことのない、3分にもわたる大きく長い揺れでした。
何故か、直感で宮城の地震を予想しました。
(数日前にも大きな揺れがあった)
駅の階段の屋根は大きく揺れ、多くの人がロータリーの中心付近に集まっていました。
その瞬間から、日常は非日常へと変わってしまいました。
隣のお客さんが「宮城で震度7」と教えてくれた時、ただ事ではないと感じました。
電話は不通。
急いで友人を道連れにタクシーで自宅へ戻りました。
着くと、母親が不安そうな表情をしていました。
きっと心配していると思ったので、すぐに帰宅して正解でした。
誰にも連絡がつかず。友人の家族とも連絡がつかず。
宮城には親戚や長年交流のある友達もいるので、とにかく心配でした。
姉が帰宅した時は、ホッとしました。
姉は東京湾岸の石油コンビナート爆発事故現場のすぐ近くで働いていました。
帰り道で爆発時の轟音を聞いたそうです。
夕方には父親も帰宅。港のすぐ近くで働いていたのですが、数十センチ潮位が変わったそうです。
頼むから逃げてくれ。
被害の状況が刻一刻と分かっていくたびに、戦慄が走りました。
建物の倒壊、大きな津波、そして発電所の損壊・・・。
被災地の方々の心労に比べたら、我々の置かれている状況ははるかに恵まれています。
しかし、我々の生活にも数々の我慢を強いられることになりました。
そんな中、世界中の人々が我々を応援してくれていました。
先日大地震が起きたばかりのニュージーランドや、やや不穏な関係にある中国やロシアからも
支援の申し出がありました。
唯一災害後まともに見た番組であるF1では、日本語をリレーして全てのドライバーが
メッセージを送ってくれたり、マシンには本来なら多額のスポンサー料を必要とするような
大きなステッカーが日本語入りで書かれていました。
最近の日本の外交はうまくいっていないけど、それでも見放すことなく力になってくれることに
大きな感動を覚えました。
みんなが応援してくれるのに、我々が音を上げてはいけない。
私も、身近なところから出来ることをしています。
募金、省エネ、情報発信(ただし情報源の特定出来ないものは排除)。
食料は必要最小限だけ。車は極力使わない。電気も極力使わない。暖房も極力使わない。
今はこのくらいのことしか出来ないのが心苦しいですが・・・。
こんな時こそ、みんなが1つにならなければいけないのかもしれません。
私欲のための行動は慎み、“今相手に必要なものは何か”を常に考えて行動すべきだと思います。
本当に、自分を含めたみんなの幸せを取り戻したいのなら・・・。
我々が今最も危惧している事象は、決して良くなってはいません。
今はただひたすら、平穏な日が再び訪れることを祈るばかりです。