2011年3月11日。
忘れようにも忘れられない出来事、そして現在進行形の出来事。

あの時、私は地元の駅前のカフェにいました。
友人との待ち合わせで時間つぶし。
その友人は、都合により遅れて到着しました。

あと10分早く友人が到着していたら、私は恐らく東京湾上の道路にいたことと思います。

14時46分。
経験したことのない、3分にもわたる大きく長い揺れでした。
何故か、直感で宮城の地震を予想しました。
(数日前にも大きな揺れがあった)
駅の階段の屋根は大きく揺れ、多くの人がロータリーの中心付近に集まっていました。

その瞬間から、日常は非日常へと変わってしまいました。

隣のお客さんが「宮城で震度7」と教えてくれた時、ただ事ではないと感じました。
電話は不通。
急いで友人を道連れにタクシーで自宅へ戻りました。
着くと、母親が不安そうな表情をしていました。
きっと心配していると思ったので、すぐに帰宅して正解でした。

誰にも連絡がつかず。友人の家族とも連絡がつかず。
宮城には親戚や長年交流のある友達もいるので、とにかく心配でした。
姉が帰宅した時は、ホッとしました。
姉は東京湾岸の石油コンビナート爆発事故現場のすぐ近くで働いていました。
帰り道で爆発時の轟音を聞いたそうです。
夕方には父親も帰宅。港のすぐ近くで働いていたのですが、数十センチ潮位が変わったそうです。
頼むから逃げてくれ。

被害の状況が刻一刻と分かっていくたびに、戦慄が走りました。
建物の倒壊、大きな津波、そして発電所の損壊・・・。

被災地の方々の心労に比べたら、我々の置かれている状況ははるかに恵まれています。
しかし、我々の生活にも数々の我慢を強いられることになりました。

そんな中、世界中の人々が我々を応援してくれていました。
先日大地震が起きたばかりのニュージーランドや、やや不穏な関係にある中国やロシアからも
支援の申し出がありました。
唯一災害後まともに見た番組であるF1では、日本語をリレーして全てのドライバーが
メッセージを送ってくれたり、マシンには本来なら多額のスポンサー料を必要とするような
大きなステッカーが日本語入りで書かれていました。
最近の日本の外交はうまくいっていないけど、それでも見放すことなく力になってくれることに
大きな感動を覚えました。
みんなが応援してくれるのに、我々が音を上げてはいけない。

私も、身近なところから出来ることをしています。
募金、省エネ、情報発信(ただし情報源の特定出来ないものは排除)。
食料は必要最小限だけ。車は極力使わない。電気も極力使わない。暖房も極力使わない。
今はこのくらいのことしか出来ないのが心苦しいですが・・・。

こんな時こそ、みんなが1つにならなければいけないのかもしれません。
私欲のための行動は慎み、“今相手に必要なものは何か”を常に考えて行動すべきだと思います。
本当に、自分を含めたみんなの幸せを取り戻したいのなら・・・。

我々が今最も危惧している事象は、決して良くなってはいません。
今はただひたすら、平穏な日が再び訪れることを祈るばかりです。