・・・遅れてしまった。

F1ファンなら、タイトルを見て大体内容に察しが付くでしょう。

「1994年5月1日、あなたは何をやっていたか」との問いに、30代以上のF1ファンをはじめとする多くの人が、「ああ、あの日のことは良く覚えているよ」と答えると思います。

F1ドライバーのアイルトン・セナが、この世を去った日です。

私はあの年以降、急激にF1に対する興味が薄れていったのを覚えています。
いくらF1ファン歴が長いと言っても、95年あたりから約10年間にわたり、F1に関してあまり多くのことを知りませんでした。
しかし、当時セナと最後まで戦っていたシューマッハに人間的な魅力を感じ始めた頃、再びF1への興味を取り戻しました。

1994年のF1は異常なものでした。

この年からハイテク装備が禁止されるようになったのですが、このままではウィリアムズが3連覇をしてしまいファンからの興味が薄れることを危惧したFIAは、当時チーム2位だったベネトンに対し、レギュレーション的にやや甘くすることを秘密裏に伝え、禁止されていたトラクションコントロールやローンチコントロールのテストを開幕前からしていました。
セナは第2戦パシフィックGP(岡山)でそれを見抜き指摘したのですが、その次のサンマリノGPでセナが死亡し、世の中の関心が彼の死因に集中する中、水面下でFIAがベネトンに対しシステムの取り外し、更に違反した罪を認めることを指示したことで、シーズン中盤のベネトンに対する不可解な裁定に対しチームが異議を申し立てなかったことに繋がり、騒ぎ立てられることはありませんでした。

またセナの最期の日、彼は異常な精神状態にあったそうです。

その原因の一つはその年のマシン、ウィリアムズFW16が非常に神経質だったこと。
前年まではデザイナー、エイドリアン・ニューウェイの手掛けたマシンデザインとハイテク装備のアクティブサスペンションが奏功して、非常に優れた空力セッティングをもたらしました。
しかしニューウェイは元々空力的に突き詰めた設計をおこなっていたため、僅かな姿勢変化に対し非常にナーバスなマシン挙動が現れるものでした。
前年までは優れたサスペンションにより相殺されていた神経質な面が、この年になって現れる結果となりました。
更にセナは以前からステアリング径に不満があり、もっと大きなものを要求していました。
それによりステアリングの位置は低くされ、またそれによるステアリングロッドの足への干渉を防ぐため、部分的にロッド径の細いものを溶接で繋ぐことになりました。
事故の根本的な原因はこの溶接が不十分だったためと言われています。

また、プライベートも影響したと言えるでしょう。
当時セナが付き合っていたアドリアーナ・ガリストウ(現表記:アドリアーネ・ガリステウ)とは将来についても考えていた関係でした。
しかし、彼女は元彼のためにセナから金を受け取ったのですが、彼女はセナにその用途を隠していました。
その事は家族やかつてのチームメイトのゲルハルト・ベルガーにも不信感と共に知れることとなり、セナは近く彼女と別れることをベルガーに打ち明けていました。
実際彼の葬儀では、家族は元恋人のシューシャとは一緒に行動していたのに対し、アドリアーナには一切接触を持たなかったそうです。

そして、あのグランプリウィークでの様々な出来事・・・。

あれから16年。

当時セナとトップ争いをしていたシューマッハは、一旦引退を経て今年復帰しました。
ニューウェイがデザインしたマシンは、時折神経質な面を見せながらもドライバーによって最速タイムを叩き出しています。

F1は大きく変化しました。
しかし、あの時のセナの記憶は変わることはなく、一生消えることはないでしょう。
セナが魅せた強者に対する強い闘争心、勝利への飽くなき執着心、そしてバイザー越しに見える孤高の眼差し・・・。
ファンを大事にし、チームの期待以上の結果を出す、最高のドライバー。
彼の記録以上に、人間味溢れる彼の面影は、いつまでも私の記憶の中で生き続けることでしょう。

最後に、私がかつてセナ展で聞いた彼の言葉を記しておきたいと思います。

「今みんながすべき事。それは、努力する事。
努力によってたくさんの辛さや困難を経験するかも知れない。
でも、それを経験するからこそ、成功というものがあるんだ。
僕はどんなに辛い時も耐えて、そしてとうとう頂点に立つ事が出来た。
だからみんなも、困難を乗り越えて努力をすれば、必ず報われるんだよ。」