また1日遅れてしまいましたが・・・。
1994年5月1日、F1第3戦サンマリノグランプリ決勝において、アイルトン・セナは
タンブレロコーナーを曲がりきれずにクラッシュし、この世を去りました。
今年の5月1日は、17年前と同じく日曜日でした。

あの日から今まで、どうしてあの事故を回避出来なかったのか考えてきました。
当時から集めてきた情報を元に、考察してみたいと思います。

あの瞬間・・・。

事故の原因は溶接不十分なステアリングコラムの破損、そしてコントロール不能となり
コンクリートウォールへ衝突。
また、死亡の原因は衝突時に破損したフロントサスペンションが、彼のヘルメットの
バイザー部分を貫通したことによる頭蓋骨および脳の損傷でした。
たった十数センチの差が命取りとなったわけです。

(0:31〜1:29あたりでステアリングの異常が確認出来ます)

セナは近年稀に見る超一流ドライバーでした。
彼はかつて、何度かホンダエンジンが壊れる前にリタイヤしたことがあります。
実際調べたら、部品に金属疲労の兆候があるものがあったそうです。
ホンダのスタッフは改めて彼の技術力の高さに感心したそうです。
私が思うに、彼ほどのドライバーならこの時もステアリングコラムが破損する前に、その兆候に
気付いていたはずです。

では、何故その時にピットインもしくはリタイヤしなかったか。

1994年のF1シーズン2戦を終えた時点で、彼はノーポイント。
一方ライバルのミハエル・シューマッハは、2連勝により20ポイントでした。
第3戦目は何が何でもポイントを取りに、いや勝たなければならないという焦りが
あったのでしょう。
更に、前日起きたローランド・ラッツェンバーガー選手の悲しい死亡事故を目の当たりに
したセナは、ローランドの遺志と共に表彰台の中央に上がるべく、自分のコックピットに
ローランドの祖国であるオーストリアの国旗をしのばせていたそうです。

“勝つしかない”セナの心の中には、そんな悲壮な決意があったに違いありません。
彼の公私を取り巻く、様々なプレッシャーと闘いながら。

セナの黄金時代には、実は公にされていない多くの不公平な扱いを彼は受けていました。
マクラーレン – セナ・プロスト全盛期2年目には、チームは両者ナンバーワン扱いを公言して
いましたが、実際にはセナはプロストよりも力の劣るマシンを与えられていたそうです。
それでもその年彼は6勝を挙げました。(プロストは4勝)
そして彼のマクラーレン最後のシーズンには、非力なフォードV8エンジンを駆って
チャンピオン最有力のウィリアムズチームと互角以上の走りを見せてくれました。

(非力なフォードV8エンジンのマシンで快走するセナ)

どんな逆境でも最高の結果を残すドライバー・・・。
アイルトン・セナの魅力は、こういう所にあったのだと私は感じています。

私は今でもモータースポーツ、とりわけF1とSuperGT、自分も参加するレーシングカートが好きです。
ですが、F1についてはセナがいた頃のような強い思い入れは、もう取り戻せないと思います。

“F1 = セナ”

私の中でこの図式が覆されない限り。